最近の実家周辺の様子が気になったのでまた帰ることにした。
気になったのは家族の調子がちょっと悪そうだったのと、
母が「最近はがれきを見ただけで泣いてしまう」
と言っていたのだが、
ただの感傷やサバイバーギルトとは違う気がしたからである。
実際自分で見て回ったら何となくその感じもわかった。
片づけはだいぶ進んでいて、
前に入れなかった場所にもかなり道が通っていた。
場所によっては驚くべき量のがれきがきれいに取り除かれていた。
そのせいで全開来た時よりはだいぶ空間に広がりが生まれていた。
でもこの「広がり」がくせ者なのだ。
僕自身、それなりに整頓された通りを車で流した時、
何か言いようのない寂しさのようなものにしみじみ囚われた。
なんというか、隙間が寂しいのである。
家の土台だけが一面に広がり、一階は骨組みだけ、
二階は無傷の家が並んで、
一階の柱に巻き付けられたビニールシートがはたはた風になびいてる。
がれきがぎゅうぎゅうに散らばっていたのと比べると、
骨組みだけが残った家や急ごしらえのでもしっかりと
作られた道路が整然と広がっている様子は、
語弊があるが何か「寂しい」のである。
同乗した妹に母親のいだいた感慨の話をしたら
「ね、これみたらわかるでしょ?」と言った。
ぎゅうぎゅうに瓦礫が詰まっていた時期は、
脇目も振らずに復興を目指して動いていた時期だった。
しかし最近は、個人の力や勢いではどうにもならない
問題もどんどん明らかになってきており、
フェーズが変わってきている。
そうした中、勢いが止まったことで、
心にぽっかり空虚を抱えてしまったり、
個人の力を越えた問題に直面してじわじわと
来る焦りにとらわれたり。
といった問題も生じるように思われる。
そしてその時、今の開けた空間が、
変に漠然とした不安やぽっかり感にはまってしまうのだ。
失われたものへの郷愁もあるかもしれないし、
この風景がスラムとして恒常化することへの不安もあるかもしれない。
いずれにしてもそこにあったのは、
不安や焦燥、死の記憶といった感情がリアリティに浸透した空間だった。
妹の旦那が「なんかある日これが全部夢で、
夢から覚めたら昔のままの生活に戻ってるのかも」
と言ったら
妹は「逆に津波が来るまでの生活が全部夢で、
ずっとこんなだったのかも知れない」と答えていた。
それは、リアリティの欠如した空間のようであり、
リアリティそのもののようでもあった。